塩原良和・稲津秀樹『社会的分断を越境する』

学部1,2年生のころ、テッサ・モーリス=スズキをよく読んだ。どうやら当時、単著をたくさん出されていたようだ。『辺境から眺める』(2000年)、『批判的想像力のために』(2002年)、『過去は死なない』(2004年)、『自由を耐え忍ぶ』(2004年)、それから共著では『グローバリゼーションの文化政治』(2004年)、『デモクラシーの冒険』(2004年)のどれも読んだ。

今回読んだ『社会的分断を越境する』には、当時からのテッサ・モーリス=スズキの問題提起もふんだんにちりばめられ、本人が巻頭に文章を寄せている。(読書経験を通じてしか出会ったことが無いが)十数年をおいての再会だった。


編者の一人である塩原良和先生は、僕が慶應でGCOE-CGCSのRA研究員をしているときに何度かお見かけして一方的に知っている。あれはたぶん、6,7年前のことで、当時の僕は「社会学っていうのも楽しそうだなあ」くらいに感じていて、自分が社会学部の教員になって、社会学の教科書の編者を務めるとは想像もしなかったころだ。

塩原先生の序章がとても良い。この本のキーワードは「想像力」、「越境」そして「共生」といったところだろうか。

本書では他者、あるいは他者で構成される社会に対する想像力を、個人が知識を活用しながら自らの共感の限界や制限を押し広げて他者/社会を理解しようとする努力と定義したい。

わかりあえないこと(共約不可能性)を前提に措くため理解しようとする「努力」という表現が用いられている。「共感が間違っている可能性を自覚しながら他者について考えることができる」というのは、僕にはやや検討が必要だが、希望のある言葉だ。

ナショナルな想像力、社会階層における不平等、スティグマ化という三つの阻害要因が絡み合うことで人びとのリアリティの分断が助長されていて、他者への対話的想像力の伸長のためにはこの分断を乗り越える必要がある

自分自身のリアリティの境界線の外にある他者のリアリティを経験することを「越境(border crossing)」と呼んでみよう

想像力を伸長させて他者の「リアリティ」なるものを想像することが、リアリティを「経験する」と言っていいのかどうかも僕には検討が必要だが、ともかく、ここではそれを経験と呼び、その経験を越境と呼ぶと宣言されているわけだ。

塩原の主張は、越境的想像力を学ぶためには知識を得ることで学ぶことが可能であり、具体的な学びの方法は「実際に越境してみること」であると続く。知識も学びも広い意味で使われている。

僕が思うに、卑近な例としては、引っ越しや海外旅行で味わうカルチャーショックをきっかけに、そのカルチャーの中にいる人たちの日々を想像することも越境として理解して良いということだろう。驚きや理解できなさに直面したときに、想像力が問われ伸びる。(直面しない世界のことについてまで、僕らはどう想像力を伸ばせるのかというのは一つの課題になりそうだ。)

越境という行為には、そのようにして出会った人々がその場所でどのように折り合いをつけていくのかという「共生」の課題が伴う。

こうして共生概念が出てくる。(共生というのは、違う者どうしが前提とされていて、違いはあるけれども共に生きるというところが重要だと僕は思っているけど、よく違いは無くて同じなんだということを共生の文脈で語ろうとするものがある。この本は、違いを前提に措いていそうで、違和感なく読める。)

僕はこの塩原の「折り合いをつけていく」というこなれた表現にすごく共感する。実は『基礎ゼミ 社会学』で僕が担当した章で問いかけているのはすべてのワークを通じて「折り合いの付け方」だ。

ところで、この本、バランスは考えられたのだと思うが、移民や外国籍住民や在日の話にやや偏重したような読後感が残る。

越境という言葉は、越えるものがどのような境界なのかによって多様な意味を帯びている。

こう塩原が序章で言っている。さらに稲津は「あとがき」で次のように言う。

人々の「日常」にこそ、他者とともに生きる社会について(再)想像することを常に可能にする「現場」があると考えている

移民も外国籍住民も震災もすべてもちろん「日常」にまつわる話が展開されているが、それでもどこか「特別なケース」に感じられた。越境は特別なケースでは無く日々行えるのだということをより積極的に打ち出すことが、越境的想像力を伸ばすためには重要ではないだろうか。

(追記)もしかすると、僕の違和感は、この本を読むときに「特別なケース」として読んでしまう、つまり「想像力を伸ばす」主体として措定してしまう自分=読者が「特別では無いケース」におかれてしまうこと、かもしれない。「折り合いを付ける」といったとき、その主体は両者ともいってみれば対等だが、「○○についての想像力を伸ばし越境する」といった途端に「誰の想像力?」となる。

……というわけで、序章が、これから取り組む共生社会プロジェクトへの参考にすごくなりそう。共同研究員の皆さんにシェアしよう。


それにしても著者陣が若い。編者の稲津さんが1984年、一番若い方で1989年。

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